密度の高い対談集で、数行読むと立ち止まって「ふむ」と考え、再び数行読むと立ち止まって「ふむ」と考えてしまう。あまりにいろいろ考えるので、一日に一章くらいのペースがちょうどよい本だ。
何をそんなに考えるのかと言えば、私自身が何かを学ぶことに興味があるし、また本を書く仕事をしている以上、どう学んでもらうのかが必然的な関心事になるのであって、本書で提示される「学び・勉強・学習・教育」といった話題には、考え込まざるを得ないのである。
当たり前だが、勉強というのは独立した行為ではない。たとえばそれは「社会に出る」ための準備だったり、自分の知的欲求を満たして人生の(つまり生きている時間の)質を替えようとする試みだったりと、別の何かとつながっている。そのつながりを、どう定位させるかによって「学び・勉強・学習・教育」といったものの扱いは異なるだろう。
本書では著者がさまざまな人と対談してるのだが、共通するわかりやすいテーマがあるわけではない。皆さんが、それぞれに自分の活動分野や関心に即して話を展開している。人によっては、学校教育に対するスタンスがまるで逆だったりする。まったくだめだ、いやいやおもしろい、と。
本書は”「学び」がわからなくなったときに読む本”というタイトルを関しているが、本書を読めば(辞書的な)「学び」の定義が与えられるわけではない。そういうかたちで「学び」がわかるようになる本ではない。
一方で、皆がテンデバラバラなのかというと、そういうわけでもない。少なくとも「変化していくことへの肯定」はすべての人から感じられる。その変化は、ある時点からSMARTに設定された目標に向けた成長、というものではない。そうではなく、どうなっていくのかは現時点ではわからないけれども、という「自分」を賭した変化である。
私たちは、学ぶことで変化する。あるいは、変化することを欲して学ぶ。
変化の仕方も、きっかけも、方法も違うかもしれない。しかし、ある時点の「自分」に固執することなく、なんらかに転じていくことに開かれた姿勢がすべての対談から感じられた。そこが本書を読んでいて心地が良い理由なのだろう。実に、風通しがいい。ジメジメとした空気に満ちていない。
その風は、あなた自身の心をどこかに運んでくれるだろう。
個人的に一番好きなのは古賀及子の章だ。感想ではなく、観察。これだけで長めの連載が書けそうなテーマである。
現代のメディアが、即時的・感情的・反応的に私たちを誘因しているからこそ、少しメタな視点で状況を眺める「観察」は有用だろう。もちろん、感想はあってもよい。あってもよいのだが、一度観察を経た感想であったほうが好ましいように思う。その観点は、『センスの哲学』で千葉雅也が示した「感動を半分に抑え、ささいな部分を言葉にする」という姿勢に通じるものがあるのではないか。ディティールを記述するためには、観察することが欠かせない。
というわけで、読書メモが増えていく本である。