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『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール)

本にまつわる壮大な対話。

本書では電子書籍は否定されていないが(教養ある人間なら当然の態度である)、それでもこの本は紙で読みたい。表紙は美しく、小口は鮮やかなまでに青い。奇妙なほど物としての存在感がある「本」である。

そもそもとして、紙の本か電子書籍かという対立は、たいした意味を持っていない。情報は必ず何かの媒体(メディア)に宿る必要があり、メディアは物性を持つので、その保存には何かしらの脆弱性がつきまとう。電子メディアは規格の旧式化の問題が、紙の本は紙そのものの劣化の問題がある。できるだけ複数の選択があった方が良い、というのが合理的な結論であろう。

むしろ、現代において意味を持つのは、「そもそも本は必要なのか」という疑問である。つまり、媒体はどうであれパッケージされた情報を作ること、そしてそれを人が摂取することが文化的に継続されるのかどうか、という点こそが「本」に関する本質的な問題である。「ウィキペディアに情報があるのに、なんで本なんて読む必要があるんですか」という問いが突きつけられるとき、「本」という文化は致命的な場所に追いやられる。逆に言えば、そうならない限りにおいて、紙の本なのか電子書籍なのかという選択はどうでもいいのだ。誰かがパッケージされた情報を読んでいる状況がある限り、「本」が死ぬことはない。

エーコは、あらゆる情報が手に入る環境において人が学ぶことを次のように端的に述べた。

考えをまとめて結論を導く技術ですよ。

たしかにその通りなのだが、ディープラーニングがさらに高度化した環境でも同じことが言えるだろうか。言える、と私は思う。

エーコは次のようにも言う。「教養とはナポレオンの没年月日を正確に知っていることではない」が、しかしその日付を「知っておくことで、ある種の知的自律性を確保でき」ると。

人が、知的操作を行う場所は脳である。どのような知識であれ、それを脳の中に通さない限り知的操作は行えない。いくらウィキペディアにあまたの情報があっても、それを読んで理解しない限りはその情報は「使えない」のである。その意味で、最終的にものを言うのは脳の中にある記憶である。自分の家で畑を持っていれば、食料品に関して一定の自給自足ができるのと同じように、何かしらの知識を有していれば、知的自律性を確保できる。我々がわざわざ知識と取り込む理由になるだろうし、またそれこそが「自分を形成していく」ことでもある。

とは言え、「人間にとって知的自律性なんて必要ないのです。すべてはシビュラ(※)のお導きに従えば順風満帆なのです」と主張する人にとっては、このような議論すらも無意味となるだろう。
※アニメ「PSYCHO-PASS」に登場するその人の資質に見合った職業選択などを行ってくれる生涯福祉支援システム。

つまり、本を読んで知識を蓄えることが必要かどうか、という問題は、人はいかなる存在で、いかに生きるべきかという問題と直結しているのだ。

いかにも壮大ではないか。でも、その通りなのである。

▼目次データ:

・序文
・本は死なない
・耐久メディアほど
はかないものはない
・鶏が道を横切らなくなるのには
一世紀かかった
・ワーテルローの戦いの参戦者全員の
名前を列挙すること
・落選者たちの復活戦
・今日出版される本はいずれも
ポスト・インキュナビュラである
・是が非でも
私たちのもとに届くことを
望んだ書物たち
・過去についての我々の知識は、
馬鹿や間抜けや
敵が書いたものに由来している
・何によっても止められない自己顕示
・珍説愚説礼賛
・インターネット、あるいは
「記憶抹殺刑」の不可能性
・炎による検閲
・我々が読まなかったすべての本
・祭壇上のミサ典書、
「地獄」にかくまわれた非公開本
・死んだあと蔵書をどうするか
・訳者あとがき 本の世界はあたたかい
・主要著作一覧

もうすぐ絶滅するという紙の書物について
ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール 翻訳:工藤妙子 [CCCメディアハウス 2010]

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