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妄想の自己完結の難しさ

佐々木さんが主催される「ライフハック@京都」に参加してきた。

少しスライドを引用させてもらい、考えたことを記しておく。


佐々木さんは、何かをより好きになる認知の流れを以下のように示された。

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興味深い流れだ。たしかにこういう流れはありそうに思う。しかし、人は「6」の段階に留まっていられない。新しい知覚を求めて行動してしまう。

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誰かのことを好きになり、妄想の中でその人と楽しくデートする。ユートピアなはずだ。でも、人はそこで満足せず、やっぱりその人と接触したくなる。新しい情報を欲してしまう。

つまり、人は妄想の中に生きることはできない。

ここで立ち上がってくる疑問は、「なぜか?」である。なぜ、人は妄想の中に生きることができないのだろうか。

3つ仮説が思い浮かんだ。

1.希釈
2.慣れ
3.素材不足

希釈

私たちは、日常的に生活している。すると、情報がやたらめったら流れ込んでくる。別にパソコンやスマートフォンを使わなくてもいい。なんなら電波の届かない森の中に入ってもいい。それでも日差し、木々の形、鳥の鳴き声といった情報が私たちの元に訪れる。

そうして訪れた情報を、私たちの脳は自動的に処理する。処理してしまう。寝ているときだけでなく、目を覚まし、行動しているときにでも、その処理は発生する。おそらく、「私」というものがそこにある以上、必ず発生してしまうものだ。

そうした情報処理が、妄想を(相対的に)薄めてしまう効果はあるだろう。だから、普通に生きている限りにおいて、妄想の中で暮らすことはできない。可能性があるとすれば、全感覚投入型のVRで、ようするに『ソードアート・オンライン』の世界だ。そこまでいけば、私たちは妄想の中で生きられるかもしれない。

慣れ

これは単純な話だ。想像した妄想に慣れてしまう。以前よりは喜びが感じられなくなり、そこに入り込んでいたくなる気持ちも薄まる。ニューロンの発火が落ち着き、喜びも消え去る。

これでは妄想の中で生きることはできない。そもそも当人がそれを望まないからだ。だから別の妄想をイメージするための新しい認知を欲するようになる。

素材不足

これはいささかややこしい話だ。

私たちが妄想というかイメージ全般を立ち上げるとき、何かしらの「素材」を使っているのではないか、という仮説を立てた。使っているというよりも「消費している」と言った方がいいかもしれない。

それは木材そのものかもしれないし、あるいはそれらを留めるクギのようなものかもしれない。ともかく、一度使ったらそれらは消失してしまう(あるいは摩耗してしまう)。だから、新しいインプットがない限り、どこかの時点でイメージを立ち上げられなくなる。となれば、新しいインプットを求めるのは必然であろう。

私たちが、すでにお腹いっぱいなくらい物語を消費していても、やっぱり次々に物語を求めてしまうのは、新奇性に引きつけられているだけではなく、「物語素材の補充」という意味合いがあるのかもしれない。

さいごに

今のところ、妄想で自己完結し続けることは難しい。VRがそれを変えるかもしれないが、もしそれが実現するにしても、「同じ妄想世界に繰り返し浸る」というのでは、おそらくダメなのだろうと予想する。

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