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オートメーション・バカ(ニコラス・G・カー)

オートメーション化の促進が、人間に与える影響を考察した一冊。

仕事にオートメーションを導入することは、さまざまな変化の起因となります。この場合のオートメーションは、機械やコンピューターによる処理の自動化、と捉えてもらえばよいでしょう。

そうしたオートメーションが職場に導入されれば、人間は細かい手順を覚える必要もなくなりますし、難しい計算からも解放されます。人間のスペックに空きができるのです。

その空きを使って、より高次な仕事に取り組むこともできますし、これなら人間は必要ないなと首切りを行う経営者もいるかもしれません。その辺りの決着はこれからの資本主義が見出していくことでしょう。

私が気になるのは、オートメーションの導入によるアイデンティティの変化です。

戦争に大規模にオートメーションが導入される以前は、砲撃部隊の「兵士(ソルジャー)」は、自分で距離や角度を測定し、ターゲットに砲撃を行っていました。しかし、著しい(そして高性能な)オートメーションの導入は、そういった雑務から「兵士」を解放し、レーダースクリーンに映るターゲットを選ぶだけで攻撃できるようにしてしまったのです。

もはやその「兵士」たちは戦場に直接出向く必要すらありません。おそらく発射のトリガーを引く恐怖心・嫌悪感・罪悪感(そして、ある種の高揚感)を覚えることもないでしょう。彼らのアイデンティティーは、おそらく「兵士(ソルジャー)」ではありません。何か言葉を当てはめるなら「運用者(オペレーター)」が適切でしょう。


あなたは、たこ焼き屋さんをやっているとしましょう。毎日熱い鉄板の前に立ち、100個近いたこ焼きの焼き加減と、お客さんの流れ具合を確認しながら、クルクルとたこ焼きを回し続けています。「たこ焼き屋」「たこ焼き職人」そんなアイデンティティーが生まれていることでしょう。

しかし、ある日全自動たこ焼き機がお店にやってきました。タネさえ機械にセットしておけば、自動的に整形し、中身の具を入れ、クルクルと回して、一番美味しいタイミングで提供してくれる素晴らしいマシンです。タネが切れそうになれば、きちんと警告を出してくれます。そのタイミングでタネを補充しておけば、途切れなくたこ焼きを作り続けることができます。

さて、あなたのアイデンティティは一体何になるでしょうか。「自分はたこ焼きを作っている」という実感を持つことができるでしょうか。できないとしたら、あなたは自分のことを一体何と定義するでしょうか。

この問題は、神林長平さんの『言壺』というSF短編集でもメスが入れられています。

私はこうしてパソコンを手にすることで、圧倒的に楽チンに文章執筆を行えるようになりました。しかし、使用する漢字は、漢字変換ソフトの影響を受けるようになっていますし、そもそも私自身の脳内に漢字のストックが増えにくい状況が生まれています。

さらに予測変換が出てくると、「どの漢字を選ぶか」だけではなく、どういう文にするのかまでソフトの影響を受けることになります。

ではもし、私の過去の文章をすべて読み込んで、「私らしい文体」を持った文章を、機械が提示してくれたらどうなるでしょうか。ビッグデータが気楽に使えるようになった世界なら、充分にありうる話です。

私が機械に「こういう話を書きたいんだ」と伝えると、機械が「じゃあ、こういう文章はどうですか」と提示してくれる。私は、それをちょっと直すだけ。

さて、私は一体何をしていると言えるのでしょうか。


オートメーションが仕事の現場に入ってくれば、人間の手が少し空きます。それ自体はおそらく良いことです。

しかし、オートメーションがあまりにも入り込みすぎて、人間の技術や判断が一切必要でなくなってしまった場合、それは「機械が人間の仕事を奪う」という労働機会の剥奪とは違った問題が立ち上がってきます。

簡単に言えば、人間が仕事から疎外されるのです。コミットできない状況が生まれるのです。

対象に関心を持ち、コントロールできている感覚を持つとき、私たちは充実感を覚えます。関心を持たない作業は単なる苦役でしかありません。また、コントロールできている感覚が一つもなければ、これまた苦役です。何をやっても、対象に何の影響も与えない、という状況でそのものごとをやり続けるのは、恐ろしく苦痛です。

「見ているだけで仕事が終わる」

という環境は、関心とコントロールを遠ざけます。どこまで行っても作業は作業のまま。私たちは苦役の監獄に閉じ込められてしまいます。


もし、全世界の人類がまったく働かなくても食糧が手に入る、という状況になったとしても、きっと人々は何かしらの「苦労」を求めることでしょう。仕事がつまらないと言いながら、毎日ロールプレイングゲームのレベル上げをやっている人もいるぐらいです。ゲームに興味がない人から見れば、苦役でしかありません。

「苦労は少ない方が良い」

なんとなく、これは常識的な話に聞こえます。たしかに、いまさら計算尺や対数表を持ち出して人間が数値を求めることに意味はないでしょう。

しかし、「苦労はゼロであるのが良い」、というのはいささか先走りすぎた結論です。そして、その結論はおそらく間違っています。

もし仕事環境を設計できる立場にいるのならば、「苦労が少なければ少ないほど、人間はその力を発揮しやすくなる」といった歪んだ思想は持ち込まない方が賢明でしょう。

たとえば、私は物書きの仕事が好きでやっていますが、「ボタン一つで、2000字の原稿が出来上がる」なんて環境が整ってしまったら、私の物書きアイデンティティーはきっと崩れます。効率的に稼げるようになるかもしれませんが、文章を作ることを好きにはなれないでしょう。

関心やコミットに細心の注意を払い、彼が(彼女が)自分のことをどのように定義するのかを考えることが必要です。それを今の資本主義に求めるのは、酷なことなのかもしれませんが。

オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること-
ニコラス・G・カー [青土社 2014]

言壺
神林長平 [早川書房 2012]

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