Lifehacking Newsletter 2016 #13より
読書が私たちに何をもたらすのか、というのは私が常々関心を持っているテーマである。
限られた時間、限られた関心の窓にできるだけ多くのものを詰め込むために、速く読めるもの、すばやく咀嚼できるもの、すぐに実践できるもの、意味がはっきりしているものを好む傾向も生まれます。それが悪いというわけではもちろんありません。しかし、浅瀬でしか泳いだことがないと、深い海は怖くなるものです。
まったくの独断だが、私はその傾向は悪いと思う。というか、悪いものをもたらす可能性がある、というぐらいか。速く読めるものを好むのは構わないが、それしか読まなくなると、どうしても何かが欠落してくる。
人間は運動しないと筋力が落ちる。では、知的な能力はどうだろうか。それだって同じだろう。そして、その知的な能力というのが、まさに「人間らしさ」を構成しているのだ。もし火星人が存在し、私たちと対等(あるいはそれ以上)の存在だと認めれば、私たちはそれを「知的生命体」と呼び、他とは区別するだろう。まさにその事実こそが、私たちが「知的なもの」に重きを置いている証左である。
それは別に「頭の良い人が偉い」という安易な知性主義ではない。動物でありながら、そうではないという自己認知を発生させている根源こそが、ここでいう「知的」(あるいは理性)な能力であり、それが衰えていき、やがて消失してしまえば人間を人間たらしめるものが何もなくなることになる。それを是とする価値観もあるだろうが、私はできるだけ、あるいは最後の最後まで抵抗したいと感じる。
出来る限り深い場所にいってみたい人は、息を止めて、判断を留保して、解釈をできるだけ遅らせて、イメージを持続させて、か細くなる残響に耳をすまさなければいけません。それには、この過剰に膨大な世界にあって「忘却に抵抗する」小細工の一つや二つが必要なのです。
大切な部分はここである。人間は「判断を保留し、解釈を遅らせる」力を持つ。それは感情的かつ直線的な反応を回避する、ということだ。それこそが、私たちがスイッチを押して動くロボットとは違う点である(むろん、やがてはロボットもそれを身につけるだろうが)。
※ちなみに群衆的行動は、これと逆の方向を持つ。
その能力があるからこそ、私たちは互いに対話し、議論を深めることができる。また自分の考えそのものを「本当にそうかな?」と疑い、バージョンアップさせることもできる。スイッチのプッシュ&ゴーな反応ではこれができないのだ。
メリアン・ウルフ『プルーストとイカ』や、あるいはニコラス・G・カーの『ネット・バカ』を紐解いてみてもいい。私たちの脳は可塑性を持ち、それは日常的な情報のインプットに影響を受ける。ごく当たり前の話だ。メディアはメッセージであり、メディアはマッサージでもある。「本」というメディアは、私たちの神経をマッサージする。そう、本を読むことはトレーニングでもあり、マッサージでもあるのだ。
読書という行為(というか習慣)は、単に知的能力の拡大を意味するだけではない。「相手の話を最後まできちんと聞く」ことを肯定するベクトルを持っているのだ。そして、その姿勢がなければ対話など成り立ちようがない。
別に読書が教養的に最も優れた行為だと言いたいわけではない。ただし、読書は知識を与える以上のことを私たちの脳にしてくれる。その意味は、この現代で改めて問われるべきだろう。