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大人の勉強について 『BRUTUS(ブルータス) 2021年7月1日号』を読んで

『BRUTUS 2021年7月1日号』の特集企画は「もう一度学びたいあなたのための大人の勉強案内」だった。企画冒頭では現代は「大勉強時代」ではないかと投げ掛けられている。

もちろん、読書猿の『独学大全』の大ヒットはそれを示しているわけだが、もう少し遡ればこの流れの嚆矢となったのは千葉雅也による『勉強の哲学』であっただろう。それ以前にも『これからのエリック・ホッファーのために』で荒木優太が在野研究に注目し、『知的生活の設計』で堀正岳が「知的生活」に現代的な光を与えたことは間違いないが、それらは「研究」といった言葉で語られていたのに対して、千葉は真っ正面から「勉強」という言葉でこの知の営みを表現した。

それは、私たち日本人の頭の中にある「勉強」のイメージをラディカルにひっくり返す試みであり、それと同じ志は『独学大全』からも感じられる。学ぶこと、勉強すること。その感覚を、「教師に教えられ、教科書に書いてあることを──試験にパスできる程度に──覚える」という理解からスライドさせていったのだ。だからこそ、今「大勉強時代」が到来していると言えるも。もしそれが「大研究時代」では私たちの関心はそこまで高まらなかっただろう。なにかしら研究という言葉には距離を感じてしまうからだ。一方で、私たちは勉強まみれの人生を歩んできた。だからこそ、「勉強」に新たな装いを──でもって、実際はそれが根源的な姿でもある──与えることに価値があるのだ。

さて、それを踏まえて「大人の勉強」である。大人の勉強とは何か。もちろん、アダルトビデオの買い方といったことではない。それもまあカウントしても悪くはないが、ここで意図されているのは「大人」が行う勉強、ということだ。そのような勉強は、「子どもの勉強」は何が異なるだろうか。

一つには、強制力がまったくない点がある。大人とは「義務教育」から解放された存在であり、人生について(いくぶんかの)裁量を持つ存在でもある。だから、学ばせようという強制の影響下にはない。この点は、反面では自由さをもたらしてくれ、もう反面では、なんでも自分でやらないといけないというやっかいさを引き起こす。だからこそ、大人の勉強は続けるのが難しいのだと『独学大全』では何度も繰り返されている。

しかし、このことを逆から見れば、私たちはすでに「義務教育」を通過した存在だとも言える。一定レベルの知識はあるし、当然のように読み書きも(最低限は)できる。まったくゼロからのスタートではない。これは一つのメリットでもあるだろうし、そうして知識全体を軽くでも触っているがゆえに、自分が興味を持つ分野を見つけやすいという利点もある。

社会人になって「もっと大学で勉強しておけばよかった」と切実に思う人は少なくないだろうが、別に勉強したくなったらすればいいのだ。そして「もっと勉強しておけばよかった」という動機ほど学ぶことを助けてくれるものはない。社会を経験し、学ぶことの必要性を切実に感じる存在が行う勉強、という点もまた「大人の勉強」の特徴であろう。

それだけではない。大人とは一般的にはそれなりに自律した存在であることが含意されている。つまり、生活している存在だ。身の回りのことを親に任せているのではなく、自分自身でそれらを行っている、あるいは子どもや両親の世話をしている場合もあるだろう。これもまた、大人の勉強の一つの特徴だ。

学ぶための環境が十全に整備されているわけではない。どっしりと構え、勉強するための時間と場所が自明のように与えられるわけでもない。「苦学」とは少し違うが、それでも楽々に臨めるものでないことはたしかだ。

前述した荒木は、本特集の「在野研究」について語る中で以下のように述べている。

大学から給与をもらえない制約のもと、日々の生活と折り合いをつけながら、なんとか自分の研究課題をこなしていこうとする人たちのことを、私は「在野研究者」と呼んでいます。

在野研究者に限らず、大人の勉強には似たような制約があるだろう。つまり「日々の生活」との「折り合い」が欠かせないのだ。これはもちろんデメリットでもあるが、だからこそ自分の関心・好奇心に敏感にならざるを得ない点と、「勉強」が日常から乖離して衒学ismに流れにくい点はメリットであるようにも思える。「勉強だけしていればいいわけではない」という言葉は、実に多義的な響きを持っているのだ。

つまり、大人の勉強とは日常と乖離した何かではなく、日常の中にある、あるいは日常に寄りそうものであり、それはつまり「生きる」ことと密接に関係した知の営みなのである。

外部的な強制力もなく、社会的成功に結びつく保証など存在しない中で、それでも何かを学びたいと思う気持ち、何かに興味を持ち、自身の知識と内的な世界を広げていきたいという気持ちを維持し続けるのは、「生活」を無視しては成り立たない。

そして生活とは、自分だけでなく他の人々との(わずらわしさも含んだ)複合的な営みでもある。勉強もまた同様だろう。偏差値を競う勉強では、他者はただただ敵対する存在でしかないが、そこから解放された勉強では他者は共に知を営むものである。そこには一定の敬意が宿りこそすれ、「論破」などといって勝った気になるしょうもないゲームは発展しない。そういうゲームが生まれるとしたら、それはようするに「生きる」かのように勉強していない、ということだ。むしろそのようなゲーム性に「生きる」ことが侵食されてしまっているのかもしれない。

一人ひとりの学びは独立的でありながら、ときおり協同的にもなる。それは融和的なだけでなく、ときに批判性を帯びるような協同作業だ。そのような感覚に親しむことも、大人の勉強の一つの面白さと言えるだろう。

総じて言えば、大人の勉強は子どもの勉強とはかなり違っている。子どもの頃の好奇心を維持したまま、大人として生活していくことで、何かしらのねじれが生まれることもあるだろう。しかし、そのねじれこそが、私たちが「スマートなもの」(効率的・直接的なもの)から逃避するために必要なものなのかもしれない。

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