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クレイ・シャーキー 「思考の余剰が世界を変える」

全人類でみると、余剰な時間とスキルは大量にある。それをどう使うかは社会的に大きな意味を持つ。

人は、消費者だけではなく、生産者でもあり、共有者でもある。どの側面を伸ばしていくかで、社会に生まれる価値も変わってくる。

という内容。で、ちょっと考えた。

たとえば、ウェブ上に情報を出すという行為、簡単に言えばブログは、一種の「市民活動」として捉えられる。有益な情報が集まれば、社会にとっての利益にもなる。もちろん「有益」は非常に広い意味で使っている。みんなが少しずつ「親切心」で、スキルやら思考やらジョークのセンスを持ち寄るわけだ。

ただし、それをいかに促進させるのか、という施策で問題が生じる。

よく知られている幼稚園の事例が紹介されていた。子どもを迎えにくる親がポツポツいるので、ためしに罰金制度を設けた、というやつだ。どうなったか? むしろ遅れてくる親が増えた。お金を払うと罪悪感から解放されて、行動の自主的な規制が弱くなったということだろう。経済学者なら罰金の金額を上げるべしと言うに違いないが、ここで問題にしたいのは、お金が入ることでそれまで維持されていた文化が崩れ去ってしまった、という点である。

ちなみに罰金制度をなしにしても、元の状態が続いたそうである。文化というのは、まあそういうものだろう。

で、現状のブログをみる。ああ、なるほどな、と納得できる。ブログを書く人が増えるのは良いことだ。ただし、「そうすれば儲かるから」という動機付けで参加する人が増えると、どうであれもともとあった文化は壊れてしまう。そして、それはなかなか元には戻らない。ようするに、何かを促進する上で、動機付けのコントロールは非常に重要で、かつ繊細だということだ。それを乱暴に行えば、結果は見えている。

「市民活動」は市民活動として促進されなければ、姿を変えてしまう。で、その代わりに別の理屈が顔を覗かせ始める。この場合は市場主義か何かだろう。儲けられる情報を出すことこそが是であり、かつその儲けを手にしている人間が勝者である、というやつだ。で、こうして根付いた文化は継続していく。たとえ、それが儲からなくなっても、だ。

でも、まるっきり回復の見込みがないわけでもないだろう。文化は形成できるものであり、未来を信じることくらいはやってみてもいいだろう。

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