言及してもらえるのはありがたいことです。
みんなこういうブログを作ればいいのに、とよく思っていた。
まさにそう思っていました。でも、世の中を見回してみると、本の紹介記事は「新着」「ランキング」「セール」ばかりなのです。なんだ、おいおい、つまらねーじゃねーの、と思っていたので、自分で作りました。
で、まあ、このブログでは基本的に本を褒めます。本の良いところを紹介します。これもその方が私としては面白い(≒自分がそういう記事を読みたい)からですが、それだけではありません。
小林秀雄さんの『考えるヒント』にこんな文章があります。
(前略)そこで、自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。
「批評とは人をほめる特殊の技術」
嗚呼、となりました。たしかに、心を強く打たれるような本の紹介は、皆その本を褒めています。少なくとも自分の体験を振り返ってみれば、大いに納得できます。何かをけなすものは、心の黒い部分が「くっくっく」とはなるのですが、何か新しいもの、ものすごいものに触れているような感覚を受けません。部屋の片隅で鏡を覗いているようなものなのでしょう。で、私が書きたいのはそういうものじゃないよな、と思うわけです。
他にもあります。
けなすことは、わりに容易なのです。
『これから本を書く人への手紙』でも書きましたが、人間という存在は不完全なものです。至らないところはどこにだってあります。もちろん本の著者でもそれは同じです。さらにメディアの限界もあります。文章で表現できることにも限りがありますし、誰かに向けて書けば別の誰かについてはそっぽを向かなければなりません。
その意味で、一冊の本はどう考えても完全な存在とはなりません。ツッコミどころは必ず存在し、しかも容易に見つけられるのです。だから、それをやっても技術的にすごいことにはなりません。もちろん、ベストセラーの本を「この本は売れています」と紹介するのも同じことです。
ゲーム的に言えば、それはイージーモードであり、人生の時間を使ってわざわざ取り組むようなものには思えないのです。
もう一つあります。
そして人は否定的なことを言うときには、だいたい言いたいだけでも、結構モチベーションとして機能するものだ。これは、脳の生理的な機能の一つで、褒められないことかもしれないが致し方ない。
まさにその通りです。Amazonの星1つのレビューを眺めていると、いくらでも実例が見つかります。
ということを肯定しておいて持ち出すのが、「アファーマティブ・アクション」です。日本語だと「積極的格差是正措置」でしょうか。
たぶんホッブズが言うところの自然状態では、世に出るレビューは否定的なものが優勢になるでしょう。脳の生理的機能から考えれば、それが自然な着地点です。昼下がりのカフェかファミレスに行って、近くの団体様の会話を聞いてみればすぐに納得できるでしょう。
でも、「この本つまんねーな」という情報で溢れかえっていたら、あまりに寂しいですよね。少なくとも本好きとしては面白くありません。
この世には本の数があまりにも多いので「この本つまんねーな」で消去法を実行していっても、まだまだ選択肢は山のように残っているわけです。結局、本を選ぶ(主要な)手がかりにはならない。だからこそ、「積極的評価レビュー」を書くのです。自然状態に対するカウンターとしてのレビュー。
でもそれは、自然状態を脱しようとする出版社の思惑とも重なるところがあり、それがステマ的なものを呼び込む余地を発生させるわけですが、「この本つまんねーな」という情報しかない状況に比べてみれば、まあ手が打てる状況ではないかと考えます。
ミシェル・フーコーは『知の考古学』というかっちょいいタイトルの本を書いたわけですが、「考古学」という言葉の響きはとても良いですね。普通に生活していたらゴミとしか見えない物を掘り起こして、「これには価値がある!」と誇らしげに語るわけです。で、もちろんそれにはそれで意味があるわけです。
批評というとさすがに大げさですが、自分が本を紹介する場合は、以上のようなことを3時間ぐらいミキサーにかけた後ぎゅぎゅっと絞り出したものを脳にちゅるちゅると流し込んで書くようにしています。
で、全体的に私はこのブログを楽しくやっています。本は、まだ今のところあまり売れてはいませんが。