WRM
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WRM 2017/01/02 第325号

あけましておめでとうございます。

正月二日目ながら、WRM第325号が配信されました。

毎度毎度冒頭の「はじめに」をまるっとご紹介しているのですが、今回はお年玉として、全編をまるっとご紹介します。

といっても、全編が「はじめに」なんですが。

では、どうぞ(ちょっと長いですよ)。


新年真っ盛りですが、当メルマガは通常通りお休みなしで配信しております。といっても、別に無理をしているわけではありません。

もともと私はコンビニで働いていました。アルバイト時代も計算に入れれば、齢18から現在に至るまで、「仕事納め」も「正月休み」も経験したことがないのです。年越しを、コンビニの店内で迎えたことだって少なからずあります。

その体験が、そのまま私の仕事感覚を醸成しているので、たとえフリーランスになっても、「正月か。じゃあ、お休みにしよう」とは思えないのです。たぶん、仕事を休んでいたら、逆に落ち着かない気すらします。

そんなこんなで、正月でも通常通りメルマガを配信しているのですが、とはいえ懸念が一つあります。

せっかくの新年なのだから、真っ白なノートやスケッチブックと向き合って、「今年一年はどうしようか、どんな方向に向かって進んでいこうか」と考えるのが有用ではないだろうか。では、そのための時間はどこから捻出するのか。そう、メルマガを読まなければいい……。

と書くと、あまりにも自虐的ではありますが、自分の心と向き合う時間を作るのはやっぱり有用でしょう。

なので、今回は通常の連載をすべてお休みして、まるまる一号「はじめに」でお送りします。何を言っているのかちょっとわからないと思いますが、ようはいつもの冒頭のように、断片的な話題が脈絡なく出てくる、ということです。ちょっと福袋的かもしれませんね。縁起がよいのかどうかまではわかりませんが。

というわけで、今週号を読まなくても、来週困ることはありません。連載と連載の間にある谷みたいなものです。「よし、じゃあ、今週はちゃんと自分の心と向き合おう」と決意された方は、心置きなくさっさと読み流して頂いて、レビュー作業にとりかかってください。

「いや、まあ、どうせ時間はあるし」、という方はこのまま続きをどうぞ。ちなみに、ボリュームはいつもと同じくらいありますので、ご注意ください。

では、さっそくスタートしまょう。

■「目標」について

私は「目標」を立てるのが好きです。

あるいはこの「目標」は、他の人にとっては「課題」と呼べるものかもしれません。自分で自分に課題を設定するのです。まるでゲームをするみたいに。

たとえばテレビゲームを考えてみても、クリアすべき困難があるからこそ面白くなるわけで、レベルも倒した敵の数もスコアもラスボスも友人の数も助けた人の数もなければ、すぐに飽きてしまうでしょう。難しすぎるのも厄介ですが、簡単すぎるのもまたやっかいなのです。

乗り越えたいと思う困難がそこにあれば、工夫が入り込む余地が生まれますし、ひいてはそれは創造性の発揮場所にもなります。つまり私にとっての目標設定は、人生を楽しむためのコツなのです。小さい子どもが横断歩道を渡るときに、白線の上だけしか踏まない、と決めるのに似ているかもしれません。

よって私にとっての「目標」は、なにがなんでも達成すべき項目__にはなりません。達成するために真剣に取り組みますが、それよりも上位のレイヤーで問題が生じたら、あっさりと手放すものです。なにせ、目標設定は人生を楽しむためのコツでしかないのですから。それが楽しめなくなってきたら、居場所を変えるべきタイミングです。

そのくらいの距離感ならば、「目標」は重荷でもなんでもありません。共に旅ゆくパートナーのような存在になります。

■2017年の目標

私の今年の目標は、「2017年を生き延びること」です。例年とまったく同じです。

まずその大きな目標があって、そのクリアボーナス条件__テレビゲームで、その条件を満たしてクリアするとスコアにボーナスが加算される__として「物書きの仕事を続ける」があります。物書きの仕事を続けて2017年を乗り越えられれば、個人的には大満足です。

このように書くと、「なんと志の低い……」とできるビジネスパーソンの方には首を振られてしまうかもしれませんが、フリーランスの物書きが生きていくのって、結構難しいのです。特に田舎に住んでいる物書きにとってはなおさらです。個人的にはそういう環境でちゃんと__つまりろくでもない仕事を避けながら__仕事ができて、一年間を生き延びられたらそれは結構な偉業だと感じています。

年収が10倍になるとか、そういう話はどうでもいいのです。まず、生き延びること。自分が納得できる仕事をした上で、生き延びること。これが肝要です。

で、その目標を達成するためになすべき中サイズの目標として、

・メルマガの運営及び広報
・月くら計画ZZの実施
・その他の活動

があります。

メルマガを今年一年もしっかり続けていくのは当然として、購読者さんの数を増やすための活動も必要でしょう。といっても、街頭に立ってティッシュペーパーを配るわけにはいかないので(おそらく費用対効果は最低でしょう)、基本的には中身のあるメルマガを更新し続けることこそが広報の軸だと考えています。

ただし、それだけでいいかと言えば、もちろん否でしょう。とは言え、無理矢理勧誘しても何一つ意味は無いので、興味を持ってもらえるようなアクションをとっていくのが良さそうです。この辺りは試行錯誤が続きます。

では、月くら計画はどうでしょうか。

もちろん「月刊くらした」計画の三年目(プロジェクトネーム:「月くら」計画ZZ)も、今年の大きな課題です。一年間で四冊の本を出版すること。また、単に出版するだけではなく、そこに何かしらの新しい試みを入れること。それが「月くら」計画を通しての課題でもあります。できるだけ、セルフパブリッシングらしいテーマや本作りにチャレンジしようと思っています。

ちなみに、「一ヶ月で一冊本を作る」のと「三ヶ月に一冊本を作る」のとでは、たぶん後者の方が難しいのではないかと予想しています。時間があればあるほど、こだわりたい気持ちが強くなり、結果的に作業が増えて、ぜんぜん間に合わない、という結果が出やすいのです。この辺のマネジメントは一つの課題でしょう。

もう一つちなんでおくと、この「月くら」計画自体が、「電子書籍を100冊発売する」という大きな野望の下位に属しています。「100冊って……」と恐れおののく感じがないではありませんが、すでに20冊近くは出版できていますし、私がこれから物書き業を続けていけるのならば、そう無理な数ではないかな、という印象もあります。

さて、最後の「その他の活動」ですが、特に明確には決めていません。何かしらのイベント・セミナーに呼ばれることもあるかもしれませんし、雑誌「かーそる」作りは継続的に進めていきますし、他の人の雑誌作りに参加したり、本作りを手伝ったりすることもあるでしょう。このあたりは、ゆる〜〜く考えております。それらの活動がメルマガの広報活動にでもなれば一石二鳥です。

2016年は、新しいことをいろいろスタートさせた年でしたが、続く2017年はそれを継続していく年になりそうです。とか言いながら、中頃でぜんぜん違うことを言い出している可能性があるのが、私の傾向でもあります。

■小説的展望

先日、とある方に「創作系の本を書く予定はありますか?」と尋ねられました。ひじょーに難しい質問です。

率直に言えば、答えは「はい、あります」となるでしょう。ネタ帳(企画案)にもライトなものからヘヴィーなものまで小説のアイディアはいくつも眠っています。

ただし、「じゃあ、今すぐ長編に取りかかるのか?」と尋ねられたら、曖昧に首を振るしかありません。そこまでの道のりは、かなり漠然としています。明確なものは何一つ持ち合わせていません。私は基本的には楽観思考で生きているのですが、明確でないものについては慎重に取り組む傾向があります。

飛び石をイメージしてください。川などに飛び飛びに__つまり連続せずに__置いてある石です。一つの石から次の石にならジャンプできます。でも、二つ目、三つ目までをひとっ飛びというのは難しいですね。「慎重に取り組む」というのは、一気に三つ目の石を目指さない、ということです。

今のところ、持ち合わせている感触は二つしかありません。一つは実用書からのシフト、もう一つは長編までの道のりです。

直近の紙の本である『ズボラな僕がEvernoteで情報の片付け達人になった理由』は、半分が物語形式で、もう半分が説明文形式でした。電子書籍の直近である『「目標」の研究』も、ストレートな説明文とは多少__いや、かなり__異なったフォーマットになっています。

両方とも、よくある「実用書」のフォーマットではなく、物語形式の力を活用した新しいフォーマットの模索が行われているのですが、たぶんこの傾向はこれからも続くでしょう。その変化(あるいは浸食)がどんどん進んでいった先に相転移が起こり、どこからどうみても「小説」としか呼びようのないものが生まれるのではないか、という予感があります。つまり、シフトの終着駅としての小説です。

これは、結論ありき__小説を書こう!__の話ではなく、自分が求めるメッセージの伝え方を探求していったら、結果的に小説になっちゃうんじゃないかな、という予想です。

もう一つは、結果ありきの話で、たとえば長編を書くにしてもたぶんいきなりは無理だろうという予想があって、まずはショートショートを制御できるようになり、次に短編を手中に収め、そこから中編・長編と自分の筆力をステップアップさせるのが、まっとうな(あるいは達成可能な)道のりではないか、という予想があります。

ただし作家には「短編がすごく得意」(でも長編はちょっと……)というタイプやその逆もあるようなので、結局私もショートショートが一番得意で長編はちょっと……というところで着地するかもしれません。そればかりはやってみないことにはわからないので、あとはやってみるだけです。

で、結論としては、「いろいろ新しいチャレンジを加えながら、本を書き続けていく」という、ひどくシンプルな指針に落ち着くことになります。ただし、視野にはそうした「長編」も入っていることは間違いありません。これも一つの「目標」ではあります。

■〜なりの知的生産

梅棹忠夫さんは、失明された後も、口述筆記と周りの人の手助けを借りて知的生産活動を続けられました。「みえないなりの知的生産」がそこにはあったわけです。

それと同じように、高齢になっても続けられる知的生産はありうるでしょう。「老いたなりの知的生産」です。

他にも、若いなりの知的生産や、貧乏なりの知的生産といったものが想定できます。ありとあらゆる知的生産がありうるのです。

これはちょっと、希望の言葉として機能しそうです。

■本を書くこと

以下の感想ツイートをいただきました。ありがとうございます。

たしかに、「本を書く」ことは不思議な行為です。誰かに向けて書かれるのだけれども、その行為は徹底的に孤独になされます。むしろ、孤独になされなければ人の心の奥にまでは届きません。著者が静かに自分の言葉と向き合い、ときに苦悩してそれらを選び取るからこそ、その言葉の配列には力が宿ります。

その点で、本を書くことは群衆の叫び声とは違っています。周りの熱狂に飲まれて生まれる群衆の叫び声は、本を書くこととは本質的に異なるのです。

別段、群衆の叫び声を無価値と断じるつもりはありません。「しょーもないな」とは思いますが、そこには一定の役割があるのでしょう。しかし、群衆の叫び声だけで十分ならば、わざわざ本を書くなんて七面倒なことをする必要はないのです。数ヶ月、ときに数年の時間をかけてちまちまと言葉を紡ぐなんて、「常人」__そこにあるもので満ち足りている人__のすることではないのです。

群衆の叫び声では足りない何かがあるからこそ、あるいはその欠落を切実に感じるからこそ人は自分で文章を紡ぎ、それを本として編むのです。

この世界には、まだ言われていないことがある。
ぜんぜんまだまだ言葉が足りていない。

そのような情念に突き動かされて生み出される文章(あるいは本)には、著者の声(ヴォイス)がどうしようもなく宿ります。文体といってしまえばそれまでですが、それ以上の属人的な何かが宿るのです。

「極東ブログ」のfinalventさんが以下のようなツイートをされていました。

ここに出てくる「人格の声」が、著者の声(ヴォイス)とイコールなのでしょう。書き言葉で書かれた人の人格の声。この声を聞き取ることは、速読ではできません。真なる速読は「読んで」いないからです。情報を拾い上げているだけだからです。

心に落ちる読書というのは、そうした速読とはまったく無縁の存在です。finalventさんが言われているように、それはtuneすることなのです。感応と言えるかもしれません。自分の精神の波長を、著者のそれに合わせること。だからこそ、心の扉が開き、その奥から何かが出てきます。そういう可能性を担保できます。

このようなことは、書く方にしろ読む方にしろ、テクニックには還元できません。あくまで在り方や姿勢の話です。テクニックはその二階に位置するのであって、些末と切り捨てることはできないにせよ、コアとは呼べないものです。その点だけは忘れないようにしたいところです。

そのようなtuneに思いを馳せれば、雑に本を書くなんて到底できないでしょう。いや、もちろん「本」の定義は広いので、いろいろな本の存在余地はあるのでしょうけれども。

■本のヴォイス

極論を言ってしまえば、本は「何が書かれているか」よりも、「どのように書かれているか」の方がはるかに重要な気がします。

■本を書くこと、本を売ること

私は物書きなので、本を書くことが仕事です。

でも、本を売ることも仕事です。

一昔前は、著者は原稿を書いていれば良く、その販売については出版社任せで良い(=著者は販促活動に関与しなくても良い)なんてパラダイスな時期があったのかもしれませんが、さすがに現代ではそういうわけにはいかないでしょう。
※そもそも本当にそんなパラダイスが存在していたのかは疑問ではあります。

出版社さんから発売される本であっても、宣伝活動に著者が関与することは珍しくありませんし、セルフパブリッシングであれば、著者が宣伝しなければ(ほとんど)誰も宣伝してくれません。宣伝がなければ、売上げが立つはずもなく、売上げが立たないならば、仕事としての物書きも成り立ちません。つまり、必須の活動です。

本当にさいわいなことに、私は長年物を売る方の商売をしていたので、本を売る活動自体に苦手意識はありませんし、いっそ得意ですらあります。

でもって、私がまがりなりにもここまで物書きの仕事を続けてこられたのは、「販促活動を軽視してはいけない」という気持ちを持っていたからではないかと考えています。「良い本を書いていれば、売上げは必ず後からついてくる」などとは一切思っていません。

でも、それと同時に「うまい宣伝活動をしていれば、どうにでもなる」とも考えていないわけです。やっぱり、自分の声が宿った本を書きたいし、届けたいと願っています。

つまり、両輪が大切なわけです。

■自律的アグリゲーション

「ブログ」が普及し始めたころに比べると、現代はブログが分散化しているな〜という印象があります。昔に存在したトラックバック文化もほとんどありませんし、「一つのテーマでいろいろなブロガーが書く」みたいなノリも、今では限定的な界隈のみ(主にはてなブログ)の盛り上がりになりつつあります。

このようにブログが分散化してくると、相対的にキュレーションの意義は高まります。

たとえば、年末にはいろいろな人が「2016年に読んで面白かった本」という記事を書いておられましたが、基本的にそれらは散らばっています。読み手としては、そのテーマでいろいろな人が書いた記事を読みたいはずですが、それをたぐる「糸」が存在しないのです。

となると、誰かがNEVERまとめとかで「2016年に読んで面白かった本」の記事を集めれば、読者としてはありがたいわけです。ここまでは、ブログとキュレーション(アグリゲーション)の良い関係なのですが、それだけでは終わらないのがややこしいところで、ブログ記事から引用を越えた無断転載を行う人が現れて、「まとめないでくれよ」と抗議するブロガーも出てきて、まとめることができなくなる状況も生まれつつあります。

困りました。

こういうのはやはり、ハッシュタグ的な何かで自律的につながりに参加する形がよいのでしょう。誰かにキュレーションされるのではなく、自分からが「まとめ」に参加する__自律的、いや自律性アグリゲーションです。Twitterのハッシュタグは好例ですが、LINEブログやMediumの記事につけるタグも同様の働きが期待できます。

ただし、逆に言うと、こうしたタグ機能を機能させるためにはプレイヤーが同一のプラットフォームに参加することが必要で、Web全体を巻き込めるわけではない、という弱点も持っています。その問題がクリアできれば、きっと新しいWeb文化が花咲くのでは、という気がしないではありません。

その意味で、Dave WinerさんがScripting Newsで公開されている「River」は面白い試みです。こういう形のアグリゲーションが増えてくれば、Webでの情報摂取もより豊かになっていきそうです。

■ラーメンズ

正月早々すごいニュースが目に入りました。

◇ラーメンズのコントをYouTubeにアップします | KENTARO KOBAYASHI WORKS

何を隠そう、私はラーメンズが大好きです。で、彼らのコントが公式でYouTubeに100本も一気にアップされたというだけで喜ばしいのですが、その動画の広告収入を日本赤十字を通じて災害復興に役立てる、ということで、もうこれを読むだけで泣きそうになりました。

ちょっとうまくいえませんが、これがインターネットの持つ素晴らしい力の一つなんだと思います。

■メディアに関する問い

去年は、Webメディアが騒がしい一年でした。

特に注目を集めたのは「キュレーション・メディア」(と呼ばれていたもの)ですが、もちろんそれだけで話が収まるはずはありません。Web上に存在している「メディアっぽいもの」すべてに対して、「ねえ、それでいいんですか?」という問いが突きつけられたような気がします(むろん、それを無視する人も多いでしょうけれども)。

インターネットの普及、ブログの一般化、それにSNSの登場で、個人が簡単に「メディア」を持てるようになりました。

となると、「メディアを持つとはどういうことなのか?」を考えたくなります。そして、その問いについて取り組もうとすれば、「メディアとは何か?」を問わなければなりません。

メディアとは、簡潔に言えば「媒体」です。メッセージを伝達するための、中間の媒体。それだけの意味しかありません。

たとえば、私が誰かに手紙を書いて、手渡したとしましょう。その手紙は、まぎれもなくメディアです。私のメッセージを、受け取り手に伝えるための媒体なのだから、これは間違いありません。

しかし、「Webメディア」のような言い方をするとき、そこで含意されているのは、手紙のようなものではなく、もっと大きな範囲に向けて情報を発信する概念です。たとえば、テレビ放送局とそのチャネルが相当するでしょう。

もちろんテレビ放送局は、「マス・メディア」という表現を持っているのですが、どうやらこの言葉に機能不全が出てきているのでしょう。ブログで何かを書くことは、あまり「マス・メディア」的行為には思えません。むしろニッチなメディアの印象はあります。それでいて、そこには共通するものがあるのです。

精緻に表現しようとするならば、そのような広範囲に向けた発信活動を支える媒体について、「パブリッシング・メディア」という呼称を与えておくのが良いかもしれません。

一度、情報論全体と情報化社会について論じながら、この辺りの言葉の混乱を整理しおいた方がよいのかもしれません。その上で、「メディアを持つとはどういうことなのか?」を問い直すのです。

■的外れなリプライ

ツイッターをやっていると、たま〜に、文脈をハズしたリプライがやってきます。論点がずれているというか、的外れというか、そういう返信があるのです。

で、よくよく観察してみると、それにも二つのタイプがあることに気がつきました。

一つは読み間違い。単純に文脈を読み違えている場合で、この場合は、自分のツイートの書き方にも問題があることがほとんどです。ようするに誤解されやすい要素があった、ということですね(そもそも140字はだいたい言葉足らずになります)。

で、最終的にはこの可能性を0にすることはできません。キャッチボールをするには、ボールから手を離さなければならないのです。相手がどう受け取るかを完璧にコントロールはできません。とは言え、相手がキャッチしやすいところにボールを投げる努力はできますし、ツイートでもそれを意識することはできるでしょう。

もう一つのタイプは、これとはまったく違っています。簡単に言うと「ツイート中に含まれるキーワードに反応して、自分が言いたいこと(日頃から言いたがっていること)を言っているだけ、というリプライです。ようするにこちらは、「読めていない」のではなく「読んでいない」のです。

これはもうお手上げです。そもそも相手はコミュニケーションをしようとすら思っていません。わら人形に斬りかかっているようなものです。だから、どれだけ配慮しても、このような反応を消すことはできませんし、訂正や補足のツイートを送ってもムダです。こういう人は文中にわざわざ書いてある注意点すら、あっさり読み飛ばして、的外れなことを返信されます。

で、今書いていて気がついたんですが、「ツイート中に含まれるキーワードに反応して、自分が言いたいことをつぶやく」って、まさにbotアルゴリズムですね。いやはや。

■身体拡張としてではないメディア

マーシャル・マクルーハンは、メディア(=テクノロジー)を身体拡張だと捉えました。

車は足の拡張、望遠鏡は目の拡張、というわけです。いささか無理のあるものもありますが、概ねこの考え方には納得できます。しかし、一つだけ疑問があります。広告は何の身体拡張なのでしょうか。

たとえば、古代ローマに広告代理店は存在したのでしょうか。広告はいつ、どのように生まれ、今のように巨大な産業となったのでしょうか。

もし、広告が何の身体拡張でもないとすれば、それはもしかしたらバグのようなものなのかもしれません。だとしたら、特別な対応が必要となってきます。

まったく違う方向から考えましょう。

車の技術の発展は、アクセルとエンジンの発展でもあり、ブレーキとエアバックの発展でもあります。その他の技術の多くも、プラスに動かす側面と、それを抑制する側面の二つが含まれているのではないでしょうか。

では、メディアの技術はどうでしょうか。プラスばかりに動いてはいないでしょうか。もしそうならば、やっぱりここには何かしらのバグが含まれているのかもしれません。

■オンラインという感覚

一昔前は、オンラインに「つながる」という感覚がたしかにありました。

ピー、ゴロゴロゴロ

というモデム音が、その接続(Jack-in)をフィジカルに表現していたような気がします。

が、常時接続が当たり前になった現代では、「つながる」の感覚はもうほとんど生じません。つながっていて当たり前だからです。むしろ今は、「つながりが途切れる」方に感覚が生じるのでしょう。

それはそれとして、常時接続であるが故に、オンライン/オフラインはちょっと奇妙な細分化を生じさせています。

・オンライン/オンライン(on/on)
・オンライン/オフライン(on/off)
・オフライン/オンライン(off/on)
・オフライン/オフライン(off/off)

「オンライン/オンライン」は、インターネットに接続していて、なおかつ誰かとつながっている状況。「オンライン/オフライン」はインターネットに接続していながら、誰ともつながっていない状況。

「オフライン/オンライン」は、インターネットに接続していないけれども、自分の意識が外を向いている状況。「オフライン/オフライン」は、インターネットに接続しておらず、自分の意識が内を向いている状況です。

この説明でどれだけ通じるのかはわかりませんが、昔に比べるとややこしくなっていることはたしかです。

■情報化社会と情報産業社会と情報化市民

東谷暁さんの『予言者 梅棹忠夫』を読んでいたら、梅棹さんが「情報化社会」という言葉について懐疑的であったことが語られていて、ちょっとびっくりしました。

しかし、ふと考えてみると「情報化社会」は、たしかによくわからない言葉です。もちろんそれは「情報化された社会」なわけですが、ではその「情報化」とは何を意味するのでしょうか。

人類の歴史をずっと遡ったとして、たとえば農耕社会でも「情報」は重宝されていたでしょう。植物の育て方、家畜の世話の仕方、石器の作り方……それらは情報であり、口伝なのか見よう見まねなのかはともかくそれらは人から人へ伝達されていったはずです。他のどのような社会(あるいは共同体)を見ても、「情報」なるものが一つも存在しなかった、あるいは存在するにしても重要な意味を持たなかった社会など皆無でしょう。昔から社会と情報は緊密な関係を保っていたのです。

だとすれば、現代を「情報化社会」と呼ぶとき、そこにはどのような意味合いが込められているのでしょうか。そこはきちんと踏み込んで考える必要がありそうです。

が、それと比較して「情報産業社会」は、輪郭がはっきりしています。

・工業産業の次のステップとして情報産業がある
・その情報産業が社会の中で重要な位置づけを持っている

これが情報産業社会でしょう。言い換えれば、全労働者人口に対する知識労働者の割合が高い社会が、情報産業社会です。

ここまで考えた上で、仮に「情報化社会」が独立した概念としてきちんと意味を有するのならば、それは「情報産業社会」よりも一つ上の階層に位置することが想定できます。つまり、以下のような構造です。

・情報化社会
 ・情報産業社会
 ・情報○○社会
 ・情報○○社会

○に何が当てはまるのかはわかりませんが、社会を構成する要素の、産業以外の要素にまで「情報の何か」のウェイトが著しく大きくなっている社会。それが情報化社会です。

で、思い浮かぶのが「人のデータベース化」です。国民一人ひとりに割り当てられた番号、あまた存在する監視カメラ、さまざまな小売店をネットワークでつなぐポイントカードによる購入履歴。枚挙にいとまがありませんが、たとえばこれを「情報管理社会」と呼ぶことができるかもしれません。

人そのものではなく、その人の情報によって管理を行う社会。こう書くといかにもディストピア感がありますが、現代でもすでに一歩か二歩はその社会に足を踏み入れているでしょう。

もう一つ、何かしら概念を無理矢理捻出するならば、「情報連帯社会」を仮置きできるかもしれません。地域・血縁ではなく、情報によって人々の連帯が生じる社会です。実際、そういうつながりが、たとえば20年前に比べて爆発的に増えているのが現代でしょう。一つの時代の特性として捉えられるかもしれません。

と、まだまだ荒削りではありますが、改めて「情報化社会」を__単なるコンピュータが普及した社会としてではなく__捉え直してみるのは、今後重要になってくるかもしれません。

さらにその上で、その社会における市民とは何で、どんな役割を担うのかを考えることが、新しい価値観の提示、新しい思想の萌芽ともなっていくでしょう。

ええ、おもいっきり大風呂敷を広げましたね。

■Q

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、脳のクールダウン代わりにでも考えてみてください。

Q. 2017年に、「これだけはやろう」と思っていることは何かありますか。

では、メルマガ本編をこれにて終了します。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみいただけたでしょうか。そうであったら嬉しいのですが。

それでは、来週またお目にかかれるのを楽しみにしております。


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