第二号脱稿後の座談会その1

「かーそる 2017年7月号」の脱稿後、メンバーに感想を書いていただきました。それを何回かに分けて、公開してみます。

では、どうぞ。

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倉下 みなさま、お疲れ様でした。本号は前号と比べていくつか変化がありました。特集記事の書き方の変化、インタビューの掲載、「ひびきあい」の掲載。もろもろ含めて、ざっくりいかがだったでしょうか?

go ではまず、「ひびきあい」のLyustyleさんとのやりとりコーナーの話しから。皆さん知ってのとおり、Lyuさんは、前号のぼくたちの記事ひとつずつについて、書評のようなブログ記事を書いてくださいました。皆さんもドキドキだったんじゃないかと思います。

で、ぼくの「人間の条件..」への記事を読んで「チャンス!」と思いました。よかったことだけでなく、いい意味での反論も入った力作でした。これは『かーそる』次号のコーナーにできる、と閃いたわけです。

(あとで倉下さんがこのコーナーに「ひびきあい」という、倉下さんらしい名前をつけてくれました。感謝)

Lyuさんの記事への反応としてぼくが書いた「忘れてしまうぼくたちが..」は、『かーそる』への掲載を意識して書きました。もちろん、どう転ぶかわからないですから、最初の記事公開のときは、ぼくひとりのお腹の中にワルダクミとして収めておきましたが。

感情的な文章にならないようにアウトラインを練ったつもりでしたが、念には念をと思い、『かーそる』編集メンバーの皆さんにも見ていただける場に5日間くらい置きました(冷却期間?)。それからリライトし、自分のブログに公開しました。

このLyustyleさんとのやりとりが『かーそる』2号に載ったことだけで、ぼく自身の今号の目標が半分は達成できた気持ちです。こういった企画を懐広く受け止めてくださった、倉下さんや他の編集メンバーの皆さん、そしてLyuさんご本人にも感謝しています。

懐の広さに関係した話題をもうひとつ。

「文章スケッチを楽しむ」は、実のところ今号のテーマが具体的に決まる前に書いたものです。書き終えたのは今年の1月はじめ。この記事の最後に「書くことについて書くときに、僕たちが書くこと」というセンテンスが出てきますが、これは前号最後に倉下さんが次号予告として書いたものですよね。文章スケッチの記事は、このセンテンスをキーワードに書き始めました。

この原稿を書いている途中か書き終わった直後に今のテーマが決まりました。その新しい?テーマへの答えとして、この文章スケッチの内容は、少しぼやけたもののように感じて、取り下げようかなとも考えたんですが、試しにこのままにしておくことにしました。で、もし倉下さんや皆さんから、書き直した方がよいという意見があれば、別のものを書くつもりでした。

結果はご存知のとおり、懐の広い皆さんのおかげで、この記事も掲載できました。そして驚いたことに、他の皆さんの記事と合わせて読み返すと、まだまだなところはありますが、当初感じたぼやけた印象は小さくなって、このテーマに対する記事として、それなりの役割をになっていると思いました。

それに、やはりぼくにとって大切な文章なので、この場に載せることができてよかったと感じています。この結果は、『かーそる』という場だったからこそと感じています。

倉下 「ひびきあい」に掲載してもらったやりとりは、内容に厚みを与えてくれたと思います。

以前記事でも書いたように(※)、最近のネットでは、こういうきちんとした意見のやりとりがすごく減っていて、言い切ってしまう、相手の反論など無視する、むしろ積極的に曲解する、というスタンスが大半で──多分その方がアクセス数が稼げるからなのでしょうが──、読者として見ていてもあまり面白みがありませんし、また、若い世代が、はじめて「言語でのやりとり」と接触したときに、そういうのが当たり前なのだと刷り込まれてしまう恐怖みたいなものも感じていました。
静かな場所での対話 – R-style

テレビなどでも、あまり落ち着いたやりとりはありませんし、そういうものに触れられる機会(あるいは機運)が少なくなっている状態なのかもしれません。

そんな中で、インターネットという場所で、こういうやりとりが発生し、またそれを雑誌という形で紹介できたのは、とても良いことだと感じています。ネットの世界、特にブログの世界では、検索されない・バズらない記事は存在しないのも同じですから、それを雑誌というコンテンツにパッケージして提出できたことには意味があると思います。

さらにそれが著名な「知識人」同士の対話ではなく、言ってみれば市井の人同士の(しかし、それなりに専門性・関係性を持つ人同士の)やりとりとして行われたことは、今回の「ひびきあい」の中で書かれていたこととも呼応するのではないか、という気持ちもあります。

単に、「発表しました。終わり」、というのでは、広がりも深みもないわけですし、発信することを通して起こる何かにまで、きちんと目配りしたいなとも思っています。

るう 確かに、巻末に読者とのやりとりが掲載されるっていうのは雑誌特有のコミュニケーション形式かもしれませんね。以前はテレビのバラエティ番組やラジオでもあったような気がしますが(ラジオはいまでもあるかな)、ネット上ではあまりみないスタイル。そこがかえって古風で味わい深くなりましたね。電子書籍でも雑誌スタイルの維持は可能と。

Tak. るうさんの言うとおり、今回の「ひびきあい」は単なるハイパーリンクを越えた外部とのリンクの作り方としてとても良かったし、読者にいろんな意味でインパクトを与えるんじゃないかなと思っています。旧来の雑誌でも読者とのやり取りというのはあったと思いますが、読者投稿的な位置づけではなく、メインページの中の記事として掲載されるというところが特に。

「懐の広さ(深さ?)」というキーワードが出てきたんですが、それは自分が記事を書いていても感じました。

特集テーマであった「動機」と「道具」についてストレートに語りたい部分はたくさんあったんですが、自分の場合それは(もちろん)アウトライナーの話になるし、それは今まで別のところにさんざん書いてきたので今さら同じことを書いてもなあ……というのもありました。

そこにちょうど12月に発表の当てがないまま(?)倉下さんにしていただいた『Piece shake Love』に関するインタビューを掲載するということになったので、ならばそれに「動機」と「道具」を接続する形で何か書こうと思ったわけです。

結果的にあまりにも変化球すぎるかな?という記事を二つ書いてしまったのですが、それが余裕を持って全体の中に吸収されていった(とぼくは感じました)のはすごいと思いました。

いろんなものを吸収していくと、それこそ「雑多」になってしまう危険があるわけですが、いろんな場面でそれを「深み」に変えることに成功してるんじゃないかという気がしています。

そして、そこにいわゆる一般的な「雑誌」よりも編集長が前面に出ている(もちろんこれは良い意味で言っています)「かーそる」の特徴と強みが出ているのではないかと。

るう 前面に出るといっても全く押し付けがましさがないのが かーそる編集長の凄いところでw。前面的というよりいっそ全面的。

go 「ひびきあい」ですが、倉下さんが言うように、いわゆる「著名人」じゃない人の話し合いが、電子雑誌という形で公開されたことが、とても大切とぼくも考えています。これはLyuさんの記事を読んで最初に閃いたことでもあります。

「著名人」だけど専門でない人があれこれ話したことは、意味がないとは思いませんが、その問いに人生をかけてきた人たちの意見を目の当たりにできる方が、ずっと面白いと思うのは、たぶんぼくだけではないと思います。

倉下さんは「それなりの専門性」と言っていますが、この記事のテーマである教育に関して、ぼくはまだ道半ばのおっさんと思っています。その一方で、Lyuさんは小学校の先生を「パソコン通信」の時代から続けていらっしゃる真の専門おっさん(ごめんなさい)と、ぼくは感じています。

本当の専門おっさん(しつこい? ごめんなさい)からのいい意味での反論を、直接もらうことができたのは、これ以上ない幸せと言うか、最高の出来事でした。あの記事を書いて本当によかったと思いました。

あと『かーそる』にとって、倉下さんが前面的あるいは全面的、というのは的を得た言葉と思います。倉下さんなしで、この雑誌が生まれなかったでしょうし、この形にまで育たなかったことだと実感しています。

ただ、個人的には倉下さんの読者だけではない読者の方たちもしっかり読んでくださっていると、1号発刊後に感じました。それは、少なからぬ年月、しっかりとブログ活動をしてきた皆さんの文章だから読みたいという方がいる証拠だと、考えています。これも『かーそる』の大切な成果ではないでしょうか。

ぼくは、ブログを書くことも最近始めたばかりで、ほとんど皆さんからの漁夫の利をもらってるだけなので、せめて今回のひびきあいのような、小さなアイディアで貢献できればと考えています。

その2につづく)

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  1. ピンバック: 第二号脱稿後の座談会その2 – Project:かーそる

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